家業から事業へ。事業から社会課題解決へ。
創業から脈打つ『挑戦の歴史』の担い手として。【前編】
家庭用エネルギー事業を軸に、多種多様な商材やサービスを手掛けている三ッ輪ホールディングス株式会社。2020年には創業80年目を迎え、7つの事業会社、4つの出資会社を擁する企業グループへと成長を果たした。そんな同社の新たな歴史の描き手が、尾日向竹信である。曽祖父が起こした家業を継ぐ三代目として、どんな筆で、どんな絵を描こうとしているのか。前編では幼少期から学生時代、就職そして三ッ輪に入社するまでの歩みを語っていただきます。
同族ではあるが順当ではない
ー『創業家三代目社長』であることは幼少の頃から意識されていましたか?
いえいえ、私の家はいたって普通の勤め人の家庭でしたから。そもそも創業は一代飛んで曽祖父でしたし、父も長男ではなく次男。私が小さい頃は銀行員だったんですよ。ある日創業者が無理やり連れ戻しにきたんだよ、なんて本人は言ってたぐらい。そんなこともあって、ひいおじいちゃんが立ち上げた家業がある、というイメージしかもっていませんでしたね。同族企業ではあるんですが、ちょっと変わっているんです。
ーどんな少年時代を送っていたんですか?
算数が好きな子どもでした。問題が解けたときの気持ちよさってあるじゃないですか。反対に国語は得意じゃなかったな。答えが曖昧だし、どうにも納得いかないことが多くて。部活動は数学部。9マスに計算した数字をひたすら入れるナインロジックとかやってましたね。あとは小学生なのに中学レベルの証明問題を問いていくという。
ーそれで大学も理工系を選んだと
そうですね。ただいちばん大きなきっかけは中学のときの家庭教師。東大生で後に富士通のエンジニアになるんですが、ロボットが好きな人でね。いちど遊びにおいでよって学園祭に誘われたんです。そうしたら研究室に『ロボットのできること』みたいな展示があった。そういうのを見て惹かれていったんですね。
そのとき「このままじゃ社会に入ってこないよな」みたいなことを東大生たちが喋っていて。人とロボットの境目って厚いよね、という話ですね。その会話を聞いているうちに、じゃあロボットの指に皮膚がついたらどうなるんだろう、とか、こういう素材の物質なら形状や温度も認識できるんじゃないか?ってどんどん想像が膨らんでいったんです。
ーかなり早熟というか、視点が鋭いですね
そのうちに進路は理工学部があっているんじゃないかなと。研究者とか博士を目指すとかではなく、ロボットを作ってみたいという単純な動機です。でも、いまにして思えば当時の東大生が語っていたことって、AIと人の共存という社会課題に当てはまりますよね。
AIがあまりにも仮想的な概念だけになんとなく気持ち悪さがあるじゃないですか。それが社会的実装の遅れにつながっているわけです。ああ、あのとき東大生たちが感じていた課題とほとんど同じだな、と。
ーとはいえ専攻したのは機械工学ではなかった
経済性工学でした。理工学部と経済学部の間に位置づけられる学問で、管理工学の一部です。たとえば工場の生産性を上げるために定量的に精査してモデルを作るとか。モデルづくりは理系っぽいんですが、経済学でもあり行動経済学でもある。これは面白いんじゃないかと思いました。
ーそのまま大学院まで進まれたんですよね
とにかく教授に面白い人がいて。口癖が『problem is boss』だったかな。とにかく問題、問題、問題だよと。倒すべきものは問題。ツールドリブンじゃないんだって話をされて。何を解きたくてお前は語っているのか、と常に問いかけられていました。
学生のうちは働いたことないから、知識のほうから積み上げていくわけですよね。でもそっち側じゃない、経済的な活動に対する課題を解くことが大事なんだとひたすら叩き込まれました。その教授からはすごく影響を受けましたよ。
ーそれは社会に出てからも?
就職は野村総研だったんですが、現場に出てから大学で学んだことが直接的に役に立ったと感じたことはありませんでした。ただし、あの教授の口癖は極めて本質的でしたね。
コンサルで学び、事業会社で試す
ーなぜ野村総研を選んだのでしょうか?
経済を大きく動かしていく瞬間に立ち会っていたい、ということですね。どうやって早いうちから大きなインパクトを自分で起こせるか、あるいは一緒に起こすことができるポジションに立てるか。そう考えたときの選択肢がコンサルタントでした。
金融業界に対するソリューションの提案が仕事でした。あらゆるジャンルのあらゆるレイヤーに対してコンサルしていく、というミッションです。クライアントは銀行、証券、保険がメインでしたね。あとは地域通貨とかクレジットカードもカバーしていたかな。下流は営業戦略から、上流だと今後5年でどういう絵を描いていこうかといったことをやっていました。
レベルもそうですが、ステージの広い会社でした。仕事の進め方も、お客様との向き合い方も含めてすべて学ばせてもらった。いまでも感謝しています。トラブルが起きたときどう進めるか。立ち止まるのも振り返るのもいい。ただ、確実に次の一歩になるアクションは何か。クライアントとの話し合いなのか、新しいものを作ることなのか。トライアンドエラーを繰り返さないと前には進まないということを身を持って経験しました。
ーそんな中、いよいよ家業へとキャリアシフトします
ーやりきったからこその決断ですね
そこで自分の選択肢になにがあるかと考えたとき、家業という大きなチャンスにあらためて気付かされた。もちろん転職という選択肢もありました。ただスピード感でいえば三ッ輪には敵わない。自分が事業主体としてフィードバックが感じられる立場に上り詰めるまでの速さですよね。
そこで父親に電話して、働かせてくださいとお願いしました。それまで家業を継ぐ話なんて一切なかったんですけどね。父も私に継がせる考えはなかったはずです。でも私はそのときはっきりと経営を継ぐつもりで入社したい、と伝えたんです。
ーいよいよ三ッ輪へジョインですね!
ところが私は三ッ輪に一歩も足を踏み入れることなく、長野のLPガス事業会社に在籍出向になります。コンサル目線と事業者目線を揃える期間が必要だと考えたんでしょうね。もともとウチと関係性の良かった長野の事業者のもとで修業しろ、と。
最初はなぜ?という気持ちが強かったですよ。期間も告げられていませんでしたし。私としては三ッ輪に入る一番大きな理由が早期に経営に参画することでしたから。しかしそれまでほとんど私に干渉してこなかった父がこれだけは譲れないという感じだったので、従うしかなかったんですね。
(後編はこちらから)